
当ブログでは「キリが無いので同人誌は扱わない」と明言していたのだが、先日久しぶりに同人誌頒布会に一般参加してきた。コミティア153である。私の初参加は晴海ファイナルのコミックシティだった。そして実は過去2度ほどサークル参加したことがあるのだが、どちらも20年以上前になる。久しぶりのコミティアで、当ブログでもお世話になっている作家様の作品を多数購入してきた。全部では無くて恐縮だが、その中でいくつか感想を残しておきたい。皆様が読んでいる前提ではないので内容の詳細には触れず、本当に思ったことだけを綴りたい。
順不同です。
空洞ですか? by たおやかハンバーグ(小野未練先生)
叙情的でちょっと切ない、小野未練先生の商業作品とテイストは変わらない。夫に蒸発された未亡人見習いの環さんの「空洞」を、隣に住む大学生の武臣くんに穴埋めしてもらう話である。二人が住む壁の薄いアパートの描写に念が入っている。所帯じみた二人暮らしの真似事、勤務先では不始末をひた隠しにする罪悪感、孤独、そんなこんなを湿度高く大学生の胸にぶつける「煮え切らない面倒くさい女」感がモノクロの世界を薄く染めてゆく。この感覚が好きだ。オチに向けて二人が前を向いてゆくところ、世界が少し晴れ上がっていくところも小野未練先生らしい人情味がある。最後、「空洞ですか?」という問いかけで本作はオチる。私は空洞という言葉にもっと漠とした虚無感をイメージするので、タイトルからのイメージとは少し合わなかった。あるいは「空洞では無い」と答えれば良いのかもしれない。
太陽だった by たおやかハンバーグ(小野未練先生)
「2冊目RTA」と称して先生が一気呵成に書き上げたコピー誌。結婚式前夜のレズ寝取り話。荒削りそのまんまなのだが、一切の躊躇いの無いヒロインの、そして作者先生の切れ味が光る。別れでもあり、腹いせでもあり、復讐めいてもいる。太陽のような温かい瞳の中に、恒星の燃え残りである白色矮星の暗い光を見たヒロインの爽やかな笑顔が作品を締める。ぶっちゃけ描写的にR-18感はあまりない。
momokumo gashuuuuu by 桃汁庭園 (桃雲先生)
桃雲先生のこだわりが全部詰まった贅沢な画集(後ろのuは5つ)。カラー絵から始まり、設定資料、キャラ絵、そして随所でどちゃくそエロい絵が襲ってくる。後半に行けば行くほど、ラフ度が上がっていき、最後は本当に人体デッサンの墓場が広がってゆく。本来は後ろから読み進めるのかもしれない。ペンと紙に命を吹き込む作業、その間にある創造主の躊躇いと積み上げの遺産はもはや哲学的とさえ言える。白黒2値のデータに立体感を与え、表情を与え、背景を与え、劣情までをも抱かせる、その過程における補助線と設計図にただただ圧倒される。もちろん絵を描かれる方が見ればもっと具体的な学びが得られるのだと信じる。面白かった。
candy like prologue by 林檎のなる木 (木瀬樹先生)
木瀬樹ガールズのちょっとえっちなセルフ二次創作コスプレ本。単行本「飴色プロローグ」の収録作品をカバーしている。コスプレものとしてのデキは未玖さんのバニー、内容的には思い入れのある「エリュトロンの瞳」の中二病少女楓さんのアクティブな傍若無人さがやはり好きだ。私を信じて頂けるなら、後ろに行くほどエロさが増していくので実用面では前から読んで頂こう。トリの雪さんがしっかり締め上げてくれる。たいへんかわいいです。
巨乳オタク彼女とオフパコアフター by 甘トウ宣言 (トウ先生)
続き物の3作目なのだが、いきなり最新作のみを入手させて頂いた。種々雑多な人が読む商業誌に対して、「コミケでオフパコから付き合う」という作品を会場で手売りしているわけなので、臨場感はハンパない。とはいえ本作は既に二人が付き合う形になった後の話らしい。じゃあ好きにヤれやと思いきや、竿役の自己肯定感の低さとヒロインの煙に巻きようがストーリーを生んで大変面白い。繰り返すがコミケの空気を吸った直後に読むからこその生々しさがあっての本作であろう。あと実用面ではエロ同人3冊分くらいのボリュームがあるので満足感は高い。
身内の死比較漫画 by 時田先生
サークル名としては「0丁目」と書いてあったような気がするが、作品は「時田」名義で出されているようだ。本作は本稿執筆直前に時限公開されており、感想を募集されておられた。私も参加したい。
本作は時田先生の実父、そして祖父の弔事に立て続けに見舞われたことについての報告である、とともにフィクションであると明言されておられる。二つのお看取りについて、どうしても「比較」してしまう、「死を比較することは人道に反する」という自らの信条に反すると分かっちゃいながらその気持ちが止められない。そしてその理由として、周囲が疎遠になっていく中で孤独死した実父と、田舎の濃密な人間関係に死後も囲まれて見送られた祖父という対比が克明に描かれている。私の家系は幸いにも長命に恵まれているのだが、近親では祖父母のうち3人と義父を見送っている。私の考えでは「死を比較することは宜しくないが、その旅立ちを比較することは必ずしも邪ではない」と感じている。もう少し掘り下げると、私は浄土真宗本願寺派の門徒として、比較的寺社に近い環境で過ごしてきた。浄土真宗では「絶対他力」つまり阿弥陀如来の本願により死者の行状如何に関わらず全員が浄土に往生すると説かれる。つまり死後の待遇に関しては平等だという信念が私にもある。逆に言うと葬儀なるものは生きる我々の「仏縁」として執り行うものであり、死者のものではなく生者のものである(浄土真宗には戒名も位牌も無い)。従って、看取る側の思いの具現化が葬儀である。憤懣も下世話ぶりも自責の念もすべて見送る側が死ぬまでのあいだ抱えるモノであり、死とも死者とも関係が無い。自分の死生観を改めて確認した思いだ。
本作で実父は、浴槽で2週間ものあいだ揺蕩っていたそうだ。この遺体を見るかと聞かれ、先生は拒絶した。私も恐らく法的義務が無ければ見ないだろう。少なくとも顔は見たくない。この事が先生の中でわだかまりとして残っていることは想像に難くない。そしてこの遺体は納棺師により死に化粧を施される。オリジナルの形相を見ていないことが恐らく原因で、この時の顔が「表情があった頃の本人の顔と繋がらない」と感想を述べられている。これも理解出来る。看取られない死であるかぎり、死後すぐ発見されていたとしても、すぐであれば尚更、死に至る苦悶の表情を遺されていただろう。人は楽には死ねない。だからこそ納棺師は安らかな表情を「造形」する。それはもはや本人の生きた表情ではあり得ない。漫画家として人一倍顔の表情をよく観察されている先生だからこその感想と思える。この後、祖父の死に顔もまた「父と同じ顔」と表現されたのも同じ理由なのだろう。私は上記の通り、死者はもうこの世には居ないものであり、葬儀の際の肉体は少しでも小綺麗に、表情は優しく「加工」されてほしいと願う。自分にも可能ならそうして欲しい。死者の肉体はこの時点でただのアイコンであり、祭りの後はすぐ焼却処分される身なのだから。本作は時田先生独特の生々しさと禍々しさが相半ばする表現で、「身内の死」という他人に説明しづらいトピックを描き上げられ、ある種の問題提起ともとれる切なさを痛烈に訴えかけられている。かくいう自分もいずれ両親ないし自分が浄土へ旅立つ際に持つであろう思考ループを前もって体験させて頂いた。得がたい経験だと素直に感謝したい。
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