Nesnesitelná lehkost bytí [ぴざぬこ] 交尾の二文字を解きほぐす (ゼロス #105)

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copyright 2023 ワニマガジン ぴざぬこ

タイトル 交尾の二文字を解きほぐす
作者 ぴざぬこ
掲載誌 ゼロス #105
ページ数 22
ヒロイン 文芸少女
竿役 先輩
エロページ位置(割合) 10 – 21 (54.5%)
発射数 1
公式タグ パイパン / ニーハイ・ニーソ / 中出し / 処女 / 制服 / 学園 / 学生 / 後輩・部下 / 童貞
修正 白抜き修正
 
自分の最近の投稿を見返して、X-eros改め新生ゼロスからまだ書いていないことを思い出した。なまえれんらく先生の「道老町すこやか放送室」を取り上げようかと思ったが、なまえれんらく先生の作品は本作含めて常に難解であり私の方で上手くまとめられなかった。Ash横島先生「曲尺手さんと大繩くん5」も良かったが、いよいよ大詰め感があり次回作を待ってみたい。というわけで本日はぴざぬこ先生の作品を紹介したい。
 

文芸少女という憧憬

本作は登場人物が二人しかおらず、しかも両名とも名前が無い。出てきた固有名詞が後述する「クンデラ」しか無いという何とも抽象的な作品である。文芸部は漫画家および出版業界に近いためか、デジタルポルノ全盛期の今日びにエロ漫画を手にするのは文芸部上がりくらいということか、舞台設定としては多い気がする。Hamao先生「白詰草の恋文」(「温かくて柔らかくて」収録)、楝蛙先生「先生で先輩」(「恋のち交尾」収録)が私の中で印象的だ。かくいう私も名前だけ在籍していた(同好会だったような気もする)。部員は女子ばかりだったが、浮いた話の一つもなかったぞ。本作はキャラの造形的にもツンとしたメガネの文学少女というテンプレートではない、個性の薄目なフラットな男女である。しかし冒頭から「官能小説を書くにあたって 処女は捨てたほうが良いのでしょうか」という剣呑な質問が飛んでくる。「エロいことを描いているが実は処女」という設定もエロ漫画ではありがちである。みちきんぐ先生「妄想作家ぼんじり先生」(「主従エクスタシー」収録、「アザトメイキング」収録ではないので注意)のあばずれぼんじり先生こと詩百合さんのように「性知識だけ豊富で好奇心旺盛ででも経験が無い」というエロ漫画打ってつけのキャラに自然と仕上がるからだ。本作のヒロインもまさにその通りである。
 

Nesnesitelná lehkost bytí

本作を一言で表すとやはり「クンデラ」である。先に断っておくが私は本作で初めて名前をお聞きした。以下は全てWikiの聞き書きのようなものである。ミラン・クンデラ(Milan Kundera)はチェコ生まれの小説家かつ文芸評論家である。1968年、当時ソ連の影響下にあったチェコスロバキアにおける自由化運動「プラハの春」を支持したために著作を発禁処分され、以降フランスを拠点とする。プラハの春を題材にした代表作「存在の耐えられない軽さ」(チェコ語:Nesnesitelná lehkost bytí)はフランス語で執筆され映画化までされた。つい数か月前の2023年7月11日に94歳で逝去されたとの事だ。ぴざぬこ先生はこの訃報に思うところがあったのかもしれない。作中もちろんクンデラ氏が登場するはずもなく、Hの駆け引き中に後輩が先輩の変態ぶりの換喩として引き合いに出されただけである(さすがに作中に注釈が付いた)。僭越ながら以降この巨匠に敬意を込めて、竿役をクンデラ先輩と呼称する。
クンデラ先輩は官能小説の執筆だけでなく、エロ本の書評までやっているらしい。個人的に親近感のあるキャラである。本作のエロシーンは四角枠でヒロインの心情が綴られていく。ただ割とノーマルにトロカされて落ちていくだけなので、解きほぐされているのは下半身だけといった感じである。12ページ、破瓜を迎えたヒロインが「好きになったきっかけは 好きでいる理由では無いんだなあ」という感想をもつ。心に響いた。好きになったきっかけは、文芸部部長という博識で素敵な先輩という憧れだったらしい。そして憧れの人と長く付き合えば化けの皮が剥がれ幻滅する。それは同時に化けの皮の内側と正面から向き合う事にもなる。博識で素敵なクンデラ先輩がヒロインのことを想い、照れ、触られ、抱きしめてくれるのが好きなのだ。そしていよいよ交尾に入る。
 

解きほぐされた交尾全文

以下、ヒロインの感じた交尾について、直接引用する。これは実際に口に出してはいないヒロインの思考である。四角囲みの単位でスラッシュを入れる。

他にもこうして挿れられて触られてわかったことがいくつかある / 顔の方を見てると触られるタイミングがわからなかったりで / 身構えていないと変な声がでたりいること / 密勅していることによる熱さだったり / おちんぽおま〇こ以外の感覚の比重が思ったより大きいこと / 自分でしている時との気持ちよさの差がそこにあること / 入って来る感覚が気持ち良いというより / 自分の方がそれに呼応して昂って快感が生まれてる感じがする /(ここで少し会話)/ 気持ちよくなりすぎると涙が出たりするなんて初めて知った / これやばい♡ / イっても止まってくれないから / ずっとイっちゃって降りてこられな— / えっ でるっ? でるって何が — / あっ精液か / そう–たぶん安全日だったはず ちがったら… / まぁ別にいいか— / 正直へろへろで片付けとかも先輩まかせで / この後の記憶が曖昧なのだけど / 良い作品が書けそうだとかアホみたいなことを思ったのは覚えている

 
率直な感想として、男性視点だなあという思いが強い。普段からのスキンシップに対する免疫のなさと、「自分でしている時との気持ちよさの差」という観点でセックスを評価するのは、常態的にオナニーをセックスの代替として扱っている男子の発想に思える。大抵の若い男はオナニーに失敗しないし、快楽に結びつかないオナニーは考えにくい。異論があれば教えていただきたいが、女のオナニーは前立腺刺激によるドライオーガズムのようなもので、最初から確実に快感を得られる構造になっていない。後段に関しても、女性が生理周期と危険日について考えるのは挿入前であり、いよいよ射精というタイミングでは無いだろう。これも男性的願望が出ているように感じる。批判をしたいのではない。もちろん読者は男性なのだからそれでいいのだ。交尾に対する女性の生々しい思考が見えたらおそらくセックスなどしていられない。過剰にも思えるがデフォルメは必要だし、(すっぴんを見たいと同様に)本音を聞きたいという欲求もまた自然なものなのだ。
文芸部とは関係ないが、私も過去に濡れ場のある女性向け同人小説を執筆したことがある。当時は生粋の童貞であり、分からないなりに「多少の痛みと出血」というのを婉曲的に誤魔化した覚えがある。正直どう描写したかも覚えていないし大したことは書けていない。ではその時に若かりし自分が童貞を捨てていたら「良い作品が書けて」いたかというと、そもそも小説自体を書いていなかったろうなという気もする。本作のヒロインも初交が作品のテイストに影響したらしい。それでもいい笑顔なので後悔は無いのだろう。良かった。
 
 

あらすじ

文芸部の女子部員が、先輩に相談している。「官能小説を書くにあたって 処女は捨てたほうが良いのでしょうか」という女子部員の問いに、同じく童貞の先輩は気の利いた返答を返せずにいた。煮え切らない先輩に対して、部員は処女を捨てると宣言し、身近な人に奪われたいと先輩に秋波を送る。

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