本稿はいつものレビューではなく、エロ漫画家と一般漫画家(=非エロの作品のみを手掛ける漫画家)の軋轢について書かせていただきたい。私がこの話を知ったのは下記のツイートである。そもそもが過去の話であるらしく、発端がどれなのかは存じ上げないが、これについて多数の反響が飛び交っている。
20年くらい昔ロフトで某週刊少年雑誌の人気漫画家さんが一堂に会するイベントがあったんだけど、そこでなんの拍子か「エロ漫画は漫画舐めてる」みたいな展開になって「俺らが本気になったらあのくらいいくらでも描ける」「うんうん」的発言が飛び出した。その瞬間僕の周囲で一斉に鳴り響く「舌打ち」… https://t.co/z2ApmeOyvE
— 環望 (@tamakinozomu) May 15, 2023
お菓子と料理
私は漫画に限らずエロを目的として作られた芸術作品全般を「お菓子」に例えている。エロに限らない芸術作品全般は「料理」だ。この定義でも、広い意味でエロ作品は一般作品の一部である。エロ漫画家はパティシエ、一般少年漫画家は板前とでも思っていただきたい。
「お菓子」は本質的に生存に必要なものではない、人間の根源にある「欲望」の昇華した形といえる。スナック菓子を除いて、お菓子は全て「甘さ」という要素を満たす必要がある。甘味は人間のみならず進化した生物全般が欲するエネルギーのサインであり、突き詰めれば食べる価値のあるものを甘いと認識するようになったと言える。文明が発達する前から甘味は存在し、果物などから人はそれを得るすべを知っていた。多くの人間が甘味を求めたが、甘味は希少だった。そして文明の早い段階で、人間は甘みを抽出する方法を学び、それを誰かへの対価として差し出すようになった。
これに対して調理全般の歴史は、栄養の効果的な摂取と、食の安全の確保(毒物の除去、腐敗の防止)が主な目的だった。生物は食べるべきでない物を同じく食味や臭いで判断する。酸味は腐敗の、苦味は毒物のサインだ。しかし酸味や苦味があっても食べられる物、身体に良いものを選別し、食べやすい味へと調合する能力は文明に必要不可欠だった。食に対する欲求は留まるところを知らないので、いつしか料理は洗練され、より良い味を希求するようになった。現代においては食の安全は十二分に担保されており、好きなものを選び食べられるようになった。それでもなお料理の根底は「生存」にあり、栄養価と安全性は重要な要素である。
エロとお菓子
エロと甘味の親和性について考えてみよう。大前提として、エロコンテンツは通常の文化的な生活に必須なものではない。生物としての必要条件は生殖のみであり、エロコンテンツは直接的に生殖という目的に資さない。お菓子も同様に、必要な栄養素が摂取できているならば食べずとも人生を全うすることは可能だ。不必要なものがなぜこんなに溢れているのか、求められているからだ。
エロと甘味、どちらも人間の本能に根ざした欲望であり、他のもので充足させることは難しい。いわゆる「別腹」というやつだ。そしてどちらも選べるほどに充足しだしてから100年経っておらず、供給が飽和したことによる「過剰摂取」さえ懸念されている。お菓子であればプランテーションによる砂糖・カカオの大量生産、そして生産技術・輸送技術の発展により、日本のような高温多湿な環境でもチョコレートやキャラメル、今では生菓子やアイスクリームも近所のコンビニで簡単に手に入る。かたや印刷技術の発達、写真の発明により、美人の裸体を鑑賞するという特権を、本人の半径1メートル以上の世界に高解像度で届けることができるようになった。それは動画の発明によってさらに煽情的なものに、そしてインターネットの隆盛によって限りなく無尽蔵かつ安価に入手できるようになった。糖分の過剰摂取は肥満及び生活習慣病の主原因となっている。酒や煙草などの排除可能な薬物と異なり、人は生まれながらにして「糖分に対する依存症患者」なため、世界レベルで取り組む問題と化している。これまた同様にエロコンテンツの氾濫は、本来の目的である生殖への関心度を下げ、性刺激に対するボーダーを不必要に高くしている。およそ一生かけても見切れない量のエロコンテンツに対して依存症を訴える人、社会生活に支障をきたす人も現れている。エロも同様に、街を歩く異性を排除することも、それに欲情することを避けることも出来ないため、深刻な問題をはらんでいる。
もっとある。現代社会においては、料理よりお菓子のほうがはるかにバリエーションが多い。料理が比較的「自然物を極力壊さずに残す」ことを良しとするのに対し、お菓子は極めて人工的である。サラダや刺身など、ほぼ無加工のものも料理に含まれるのに対して、生フルーツそのものをお菓子にカテゴライズすることはあまり無い。イクラなどは人工品があるにもかかわらず、天然物の方が高価である。かたやチョコレートやアンコなどはほぼ原型を留めておらず、加工度が高いものほど上等でさえある。お菓子にはある種の「理想化」の欲求があり、食味と関係ない装飾を施すことの付加価値が大きい。和菓子の上生菓子などほぼ全部色の付いたアンコ(練切)なのだが、四季折々のバリエーションを楽しむものとなっている。繰り返すが味は「甘い」一本槍で、似たような味を色違いで出したとしても客は買い求めるのだ。
言うまでもないが、エロに関しても正直全てのパターンは出尽くしたようにさえ思える。所詮ヤルことは一つであり、今となっては新規生産するまでもなく既存のコンテンツを一生かけても見尽くすことなど出来ない。それを分かっていながらも人は新作のエロを高い金で買い求める。欲求はますます細分化され、個々人の性嗜好に合ったエロを享受することができる。SNSの発達により、なんと見知らぬ女性に金を払ってリアルタイムでストリップを要求することさえできるようになった。二次エロに関しても同様に、クリエイターに直接自分好みのコンテンツの制作を依頼できるシステムが確立しつつある。そしてAI技術により、真の意味でのエロコンテンツのオーダーメイドが可能になりつつある。
エロ漫画家固有の価値
当初の質問に戻る。私の例えで答えるなら、一流の料理人はおそらくデザートなどのお菓子もレパートリーに入っているだろうし、お菓子のレシピを読めば美味しく調理することは可能だろう。対して、一流パティシエは恐らく客向けに肉を焼いたりスープを作った経験は無いと思われる。偏見だが、少なからぬ料理人は菓子類を嫌っている、もしくは下に見ていても不思議ではない。彼らにとっての使命は、あらゆる食材を独創的かつ最高のレシピで客に提供することである。甘味だけに特化することは文字通り「甘え」であり、お菓子など通り一遍の食材で適当に作れると心底思っているだろう。
それでもなおパティシエ、菓子職人は存在し、料理人と比肩する称賛を受けている。そもそも求めるものが違うのだ。美味しいプリンのレシピ一つを作りこなすだけで一流のパティシエとは呼ばれない。料理人がコース料理に選択の幅を求めない(ビーフorチキンはあっても、100種類から選べたりは通常しない)のに対し、菓子店は店中に溢れんばかりの種類のお菓子を並べている。ケーキ屋であればガラスケースに10種類以上の色とりどりのケーキを並べている。食べればどれもケーキだろう。日持ちもしないし極力品数は抑えたいはずだ。それでも和洋問わずお菓子屋には必ず選択肢が用意される。それこそ客がお菓子というものに対して真に求めているものだと考える。
「女教師モノのエロを描いて」という問いに週刊少年雑誌の人気漫画家はきっと応えられるだろう。間違いなく描ける。何故なら可愛い女の子のちょっとエッチなシーンぐらい描けないと少年漫画家は務まらないからだ。しかしだからといってエロ漫画家に簡単になれるとは思わない。エロ漫画家はエロという目的に対して何度も何度も作品を仕上げる。同じテーマであっても、全く同じものを出すことは許されない。それを繰り返すことによって、一流パティシエと同じように「レパートリー」「作風」「個性のバリエーション」というべき物が読者から見えるようになる。自分の好きな作風の先生は、「きっと次回作でも自分の性癖に刺さるエロい作品を描いてくれるに違いない」、この期待値こそが、作品を超えた一流エロ漫画家の価値である。現役のエロ漫画家が通常、個々の作品やキャラクターで語られない理由もここにある。極論を言えばキャラクター自体を借用する二次エロでも超有名漫画家が輩出されるのも、その作家が元ネタを変えても読者がついてくるのも、期待値がモノを言うからだ。刺さった作品は読者それぞれで、期待外れの作品が中にはあったとしても、「次」に期待できる、期待に応えられるのがエロ漫画家の使命だ。これが私の回答である。